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真珠業界 温故知新 国内編(その1)

日本では新社会人を街中や電車で多く見かけるシーズンですね。
今回は社会人の大先輩である、関連会社顧問の鈴木道郎氏にインタビューしています。現在とは隔世の感のある話やインタビュアー自身の経験と重なる話が飛び出しました。若い方は「そんな時代だったのか」、社会人歴の長い方は「そう、そんなことがあった」という感想をお持ちになるのでは?ざっくばらんなお話の中に昔を知り、今の時代を考えるヒントがあるかもしれません。(文中敬称略)

インタビュアー(以下I):今日はよろしくお願いします。
鈴木:インタビューなんて慣れてないので、お手柔らかに(笑)

I:では、早速ですが真珠業界に就職された志望動機や当時の就職状況などお聞かせください。
鈴木:大学進学を目指し一浪したのだけれど、どうにも大学でしたいことが見えてこなかった。そういう感じだったから、受験も失敗したのかな(苦笑)。それで就職に方向を切り替えた。そんな時、たまたま父が東京の大手宝飾店が社員募集している記事を新聞で見かけたのがきっかけで、公募で就職試験を受けたら合格、採用されることに。

I:ということは、真珠や業界に関心があったわけではない、ということですか?
鈴木:実は、そう。だから、社会とか業界についての知識が乏しいままに就職した、とも言えるわけ。ただ家族はみんなサラリーマンだったし、社会人になることに抵抗はなかったな。自分が就職した1964年は高卒で就職する人は今よりずっと多かった、社会人の半分以上はもしかしたら高卒だったかもしれないね。

I:初任配属先をお教えください。
鈴木:初配属は本店。

I:なんと、いきなり本店ですか?
鈴木:そう。初任配属は製品課といって、工場と営業とのつなぎ役のような部門で、商品の点数や検査などを行っているところ。でも、配属半年で輸出部に異動に。部署の名称どおり、欧米への輸出の取扱いをするセクション。ベトナム戦争に出兵するため日本に駐留している米軍向けの商品量も多かった。

I:当時の日本の景気は今とは大違いだったと聞いています。
鈴木:そうだね。特需景気と称された時代を経て、好景気の真っただ中。「三種の神器」(注1)と呼ばれたテレビ、洗濯機、冷蔵庫を一般家庭でも買い求めることができるくらい日本の経済は回復していた。そして1964年の東京オリンピック開催で世界中から日本に観光客が訪れた。つまり、来日中の外国人が日本のお土産の1つとして真珠を求める機会が爆発的に増えて、商品調達に走り回る日々だった。商品のパッケージを作るために残業、時には徹夜ということもあったなあ。

I:伺うだけでも大変な毎日です。でも同時に、やりがいも感じておられたようにお見受けします。そして5年後、子会社へ自ら志願して移られたと伺っていますが。
鈴木:冒頭に言ったように社会知識に乏しいまま入社し、言われたことを一生懸命にやっていた。ふと社内を見ると、当時でも大卒者が男性の半数以上を占めていた。彼らの学歴や知識にどう太刀打ちするか、を考えた。自分に劣等意識というか反骨精神もあって、現場の実地体験を積むことで自分の経験値を上げていこうと判断して名乗りを上げた。事前に詳細な説明を聞き、大きな商売ができる可能性を感じたことも一因だった。実は、会社初の出向社員だったから、労働組合も色々確認してきたよ。

I:今でいうパワハラを受けたとか、無理やり行かされるのではないか、とか?
鈴木:今だとそういうことを聞かれそうだね。でも、自分の場合は志願してのことだから全然違う(笑)

I:志願された新天地では、どのような仕事を担当されたのですか?
鈴木:法人開拓の営業を12年担当した。これがこの後のキャリアにつながる営業職のスタートと言えるね。バックにいる親会社の影響もあって、顧客の新規開拓はスムースに展開していった。1970年の大阪万博には国内外から約6,400万人の観客が訪れ大盛況、日本はまだまだ元気いっぱいの頃だったし。

I:親会社時代と同様、真珠を取り扱われていたと聞きました。
鈴木:自分の記憶では約8割は各種真珠製品で商売をしていた。アコヤ真珠だけでなく、当時数多く輸入したタヒチ産の黒蝶真珠や他の南洋真珠も扱った。トップクオリティのものは、親会社に卸すことも。振り返るといい時代だったけれども、好事魔多し。他社の大きな倒産に巻き込まれてしまい、社内が大混乱になって・・。上席者に責任を取る人が数名出る中、営業部長を務めていた自分も責任を感じて退社する決断をした。

I:急転直下な展開!しかし、真珠業界との縁は続いてゆくのですね。
鈴木:幸いなことに、退社後に複数の会社から「来ませんか」というお誘いを受けた。その中の1つで子会社勤務時代に縁のあった会社へ営業として再就職することに。まずは実力拝見ということで、新規開拓を担当した。苦労もあったが、前職で培った人間関係や経験値が非常に活きている実感があった。と同時に、今までのキャリアから高い成果を期待されていることも当然意識して過ごしていたよ。

I:そうして時代が移り、バブル全盛期から崩壊期に突入してゆきます。
鈴木:バブルの頃は、顧客も会社も景気が非常に良かった。3億円、1億円など1回あたりの商売の金額が大きかったと覚えている。北海道から九州まで全国で商売を展開していたね。ところが、バブルの崩壊で宝飾業界もその大波を逃れることができず、営業不振に。この頃、自分は常務取締役になっていたのだけれど、営業担当として責任を取る形で退任。その後、自分で会社を興し、今は規模を縮小して個人事業主として真珠に関わり続けている。

I:まさに山あり谷あり、の社会人人生を歩んで来られたのですね。営業担当が長かったと伺ったので興味があるのですが、商売上、日本の中で地域差を感じることはありましたか?
鈴木:それはやはりあるなあ。国内だと、関東とくに東京、中部、関西、九州が大きな市場で頻繁に訪れたけれども、地域によってこれほど違うか!と思ったね。東京の商売は「YesかNoか」で時間がかからない。名古屋では懐に入るまで時間がかかるけれども、一度入ると信用してくれた。九州は意外に商売がやりやすかった印象がある。その反面、自分は関東圏に長く住んでいるためか、関西での商売には戸惑う、というか苦手というか・・関東ではあまり経験のなかった値引き交渉などが繰り返され、決定までに時間がかかることが多くて。かなり苦戦した記憶が残っているよ。

(その2に続く)

(注1)三種の神器とは、1950年代後半に登場した白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫をさす。冷蔵庫と洗濯機は特に当時の女性の家事軽減に役立った。当初、白黒テレビは高額だったこともあり一般家庭には手が出にくいものだったが、量産化が進み、求めやすい価格になったことに加え、皇太子ご成婚(当時)やオリンピックなどを見るため普及が進んだ。

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